コンテナハウスコラム
四半世紀以上にわたり現場に立ち
研究し続けてきた私たちだから語れる
リアルな“コンテナハウスの深堀り話”です。
更新日:2025.06.06
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なんちゃってブルックリンの光と影_都市の余白とコンテナの逆襲
それは一種の”ごっこ遊び”から始まった。否、それは、都市に残された時間の堆積と、人間の居場所への根源的な欲望が、偶然にも美的に化学反応を起こした現象だったのかもしれない。その名を、「ブルックリンテイスト」と呼んでいる「。

古びた赤レンガ、鉄の扉、むき出しの配管、そしてやや色あせたヴィンテージ家具。壁には敢えて剥がしきらなかった塗装の跡。照明は少し暗めで、影が空間の質感を深めている。そこには“完成された洗練”とは異なる、荒削りで不完全な美がある。都市の片隅にある、過去の残響のような空間。多くの人が「かっこいい」と感じるこのスタイルは、ただの意匠ではなく、都市と時間が編み出した一種の風土なのだ。
私たちはそれを、コンテナという建築形式で翻訳しようとした。

都市の風景が変わった瞬間
ブルックリンは、もともとニューヨークの物流を支える倉庫街だった。川沿いの埠頭には無数の倉庫が建ち並び、木箱や麻袋を担いだ男たちがひしめき合い、怒号と笑い声が飛び交っていた。都市が“働く”ということの、最も物質的な側面がそこにあった。
だがその風景を終わらせたのは、ひとつの発明だった。コンテナ。1956年、アメリカで初めて実用化されたこの鉄の箱は、世界の物流を変えた。貨物を均質な箱に詰め、クレーンで積み降ろし、列車とトレーラーでそのまま運ぶ。それまで数日かかっていた積み替え作業は数時間で終わるようになり、港における人力の役割は激減した。
それは“港湾労働者”という職業の終焉であり、倉庫という建築の役割の終焉でもあった。

倉庫街は取り残された。巨大な物流港は郊外へと移り、ブルックリンの倉庫群は空っぽになった。けれど、空っぽになったその空間に、芸術家たちが入り込んだ。騒音と埃に代わって、絵の具とジャズが流れはじめた。産業の残骸の中に生まれた、静かなアジール(避難所)。そしてそれが、いつしか“ブルックリンスタイル”と呼ばれる、ひとつの文化的美意識になっていった。

コンテナの逆説的帰還
皮肉なことに、その倉庫街の終焉をもたらした「コンテナ」が、いま再び都市に戻ってきている——今度は建築という姿で。輸送手段としてではなく、人の居場所としての容れ物、すなわち“空間のモジュール”として。
コンテナ建築は、単なる箱の組み合わせではない。それは、「都市に残された余白に、どんな時間を封入できるか?」という問いである。
ブルックリンのように、かつては用途の終わった空間が、新たな物語を受け入れる受容体として立ち上がったように、コンテナハウスもまた、未完の器である。
私たちの建築は、輸送用コンテナを流用するものではない。しかし、その寸法、構造、世界標準の規格性を受け継ぎながら、住まいや店舗、別荘、オフィスとしての機能性を与えられた“新しい倉庫”とも言えるだろう。

「スタイル」から「態度」へ
「なんちゃってブルックリン」と自ら揶揄しているように、表面的な意匠の模倣には確かに限界がある。錆びた風合いや露出配管を設えたところで、それがただの装飾でしかなければ、それはブルックリンではない。
けれど、コンテナハウスという存在が、かつて都市を空洞化させた技術が、新たな居場所のかたちとして立ち上がるとき、それは単なるスタイルではなく、都市への“態度”となる。
廃材を使ってもよい。鉄をむき出しにしてもいい。むしろそれは、都市の時間を空間に刻む作業だ。だから私たちは、コンテナ建築においても、ブルックリンのような“余白”を大切にしたいと考えている。剥き出しの構造、美しくない継ぎ目、光がこぼれる隙間。そのひとつひとつに、物語を委ねることができる。

旅するコンテナ、漂う都市
都市は完成しない。どの街にも常に未完の部分がある。建設中の高架、取り壊し中の家屋、開かずの踏切、そして空き地。人その“都市の隙間”に魅了される。
コンテナ建築もまた、ある種の“未完”を体現している。自由設計にしても、セルフビルドにしても、完成形を一意に定めない。暮らす人、使う人、訪れる人が、そこで何を感じ、どう関わるかによって、空間の意味は変わっていく。
ブルックリンは、かつての「終わった都市」だった。そして、だからこそ「始まりの都市」となり得た。
私たちのコンテナ建築もまた、ある人にとっての“新しい始まり”になることを願っている。粗く、骨太で、少し未完成なそのかたちは、もしかするとあなたの中の「都市」を、静かに揺さぶるかもしれない。

終わらない建築——余白を愛する人たちへ
「なんちゃってブルックリン」とは、スタイルではない。それは、都市の記憶を空間に残すこと。使い古された鉄と、かつての機能を脱ぎ捨てた建物に、新たな意味を見いだすこと。時代が終わった場所に、別の時代の始まりを仕込むこと。
コンテナハウスがその精神を宿すことができたなら、それは単なる箱ではなく、“都市の余白に立つ物語”となる。
そんな風に考えながら、今日もまた一棟、どこかに置かれる。きっとその場所にも、まだ語られていない物語がある。



記事の監修者

大屋和彦
九州大学 芸術工学部卒 芸術工学士
早稲田大学芸術学校 建築都市設計科中退。
建築コンサルタント、アートディレクター、アーティスト、デザイナー。